ことわざ「釈迦に説法」を紹介します。どんな場面で使うのか、目上の人に使っても失礼にあたらないかなど「釈迦に説法」をさまざまな角度から解説します。類語と例文もチェックして「釈迦に説法」の使い方をマスターしてください。
「釈迦に説法」の読み方
「釈迦に説法」は「しゃかにせっぽう」と読みます。「説法」の代わりに「念仏」または「経」を使い、「釈迦に念仏(しゃかにねんぶつ)」や「釈迦に経(しゃかにきょう)」という場合もあります。意味は「釈迦に説法」とまったく同じです。
「釈迦に説法」の意味と由来
「釈迦に説法」の意味と由来について解説します。
「釈迦に説法」の意味は?
「釈迦に説法」の意味は、「その道を知り尽くしている人に、ものごとを教えようとする愚かな行為や人」です。「愚かで恥ずかしいこと」の意味でよく使われます。
「釈迦に説法」の由来・語源
「釈迦」とは仏教の開祖で世界三大聖者の1人、釈迦牟尼(しゃかむに)です。「お釈迦様」や「釈迦如来」などとも呼ばれ、仏教で悟りを開き、生涯を修行と布教に捧げました。一方、「説法」は「仏教の教えを説いて聞かせること」または「ものごとの道理を教え諭すこと、説教」意味です。つまり、ことわざ「釈迦に説法」は「仏教の開祖であり聖者である釈迦に、わざわざ仏教の教えを説いて聞かせること」に由来しています。
どんな場面で「釈迦に説法」を使うか
どんな場面で「釈迦に説法」を使うのかを解説します。ビジネスシーンで「釈迦に説法」を使う場面を間違えると、失礼にあたることも。ふさわしい使い方と場面を確認します。
愚かな行為を戒める
だれかの愚かな行為、失礼なもの言いを戒める場面で「釈迦に説法」を使います。たとえば同僚が、その人が専門家だとは知らずにレクチャーしようとした場面です。「その方は専門家だから何でも知っているし、失礼にあたるのではないか」というニュアンスで、同僚に「それは釈迦に説法だよ」と伝えます。また、目上の方や専門家だとわかっていながら、あえて自分の考えを主張しようとする人をいさめるためにも「釈迦に説法はやめたほうがいいよ」と使います。
目上の人に意見を言うとき
自分よりも相手が目上やその道に通じている人であっても、意見を言わなければならない場面で「釈迦に説法」を使います。「こんなことを申し上げるのは、釈迦に説法で恐縮ですが」と、相手の立場が上で自分は下だと位置づけてから意見を言うかたちです。自分がへりくだることで相手を立て、角が立たないようにします。ビジネスシーンにおいて、目上の方と仕事をする場面で重宝する使い方です。
「馬の耳に念仏」との混同に注意!
うっかり「釈迦に説法」と混同しがちなことわざが、「馬の耳に念仏(うまのみみにねんぶつ)」です。「馬の耳に念仏」は「馬に念仏を聞かせても無駄」、つまり「ありがたみや価値がわからない」または「意見をしても、まったく効き目がない」意味で使います。目上の方に対して使うと、失礼にあたる場合も。それぞれ「説法」と「念仏」を使ったことわざなので混同しがちですが、意味の違いに注意して使い分けてください。
「釈迦に説法」を使った例文
「釈迦に説法」を使った例文を挙げます。
- 先月、うちの部署に入ってきた新人は腕の立つプログラマーらしいね。うっかりレクチャーしなくてよかった。私が恥をかくところだったよ。
- ・部長、釈迦に説法だとは承知しておりますが、1つ気になっていることをお伝えしてもよろしいでしょうか。
- ・初対面の彼女とゴルフ談義で盛り上がったが、あとから女子プロだと聞かされた。釈迦に説法のようなことを言ってしまったのではないかと心配している。
「釈迦に説法」の類義語・言い換え表現
「釈迦に説法」の類語、言い換えられることわざを紹介します。いずれも「専門家相手に教えてあげようとする愚かさ、恥ずかしさ」の意味で使います。
「孔子に悟道」
「孔子に悟道」は「こうしにごどう」と読み、「その道に長けている人に対して、教えてあげようという愚かな行為」の意味です。「孔子」は儒教の開祖で、釈迦と同じく三大聖者の1人。「悟道」とは「悟りを開いて道理を得ること」です。儒教の開祖である孔子を諭そうとする行為を指して、「愚かなこと」としています。「釈迦に説法」と「孔子に悟道」のそれぞれで使えますが、「釈迦に説法孔子に悟道」と1つのことわざとする言い回しもあります。
「孔子に論語」
「孔子に論語」は「こうしにろんご」と読みます。意味は「専門家に教えを説く愚かさ」で、「釈迦に説法」とまったく同じです。孔子は中国春秋時代の思想家。孔子と弟子たちの問答を、孔子の死後にまとめた書物が『論語』です。『論語』には学ぶことや政治、仁徳など人生のあらゆる教えが記されています。日本に『論語』が伝わったのは3世紀後半とされ、『日本書紀』にも『論語』についての記述があります。日本人が初めて触れた書物だとされ、のちに聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の語源になるなど大きな影響を与えました。
「猿に木登り」
「猿に木登り」は「さるにきのぼり」と読み、「その道に秀でた人に教えてあげようという、無駄な行為」の意味です。その道に秀でた人を、木登りが達者な猿にたとえています。
「河童に水練」
「河童に水練」は「かっぱにすいれん」と読みます。「河童」は日本にいるとされる想像上の動物や妖怪の類で水辺にすみ、泳ぎが上手だとされています。「水錬」は水泳や遊泳、また水泳の練習です。これらから「河童に水練」は、「泳ぎが巧みな河童に水泳を教えるような、無駄で愚かなこと」のたとえに使われます。
「極楽の入り口で念仏を売る」
「極楽の入り口で念仏を売る」は「ごくらくのいりぐちでねんぶつをうる」と読み、「すべて知り尽くした人に無用な教えをすること」の意味です。仏教では一心に念仏を唱え、念仏を実践した人が極楽浄土に導かれるとしています。つまり、極楽の入り口に来た人は、すでに念仏の教えを十分に実践した人です。ことわざ「極楽の入り口で念仏を売る」は、そんな人にあらためて念仏を売るという、無益さや愚かさをたとえています。
「釈迦に説法」の英語表現
「釈迦に説法」の英語表現を解説します。直訳は「preach to Buddha」ですが、ほかの表現をつかう場合がほとんどです。いずれも「無駄なこと」や「愚かなこと」を表します。
「Don’t try to teach your grandmother to suck eggs.」
「釈迦に説法」の英語表現でよく使われるのが、「Don’t try to teach your grandmother to suck eggs.(祖母に玉子の扱い方を教えるな)」です。料理や玉子の扱いに十分慣れている祖母にいまさら玉子の扱いを教えるのはおかしいことから、「無用なこと」や「余計なこと」のたとえに使います。
「Don’t teach fishes to swim.」
「Don’t teach fishes to swim.(魚に泳ぎ方を教えるな)」は、「その道に長けた人に教えようとする愚かなこと」の意味で使います。日本では泳ぎが上手なものとして「河童の水練」ですが、英語では魚のたとえです。いずれにせよ、「達者なものに素人が教えようとする無駄なこと」を表します。
「preach to the choir」
「preach to the choir(聖歌隊に説教)」は、「すでに道理をわかっている人を説得しようとすること」を意味する英語表現です。この場合、説得しようとしているのは神父で説得されるのは聖歌隊です。神父の方が教えをよく理解しているものなので、「釈迦に説法」とは少し違うかもしれません。しかし「神の教えを学び、聖歌隊にまで入っているような信仰の篤い者にわざわざ説教する必要はない」の意味で、「釈迦に説法」と類似の表現です。
「A sow to teach Minervia.」
「A sow to teach Minervia.(ミネルヴァに教える豚)」も、「釈迦に説法」に似た意味の英語表現です。「ミネルヴァ」は知恵の女神を指し、豚はキリスト教で「無能なもの、愚かなもの」のたとえです。愚かな豚が知恵の女神に教えるという滑稽さを表しています。
まとめ
「釈迦に説法」は、「その道に通じている人に教えようという、愚かさ」の意味で使うことわざです。ビジネスシーンでは目上の人に意見しなくてはならない場面で使うと、角が立たずにすみます。「釈迦に説法」を上手に使えば、円滑なコミュニケーションに役立ちそうですね。