「ネロ」と言えば、第5代のローマ皇帝です。暴君として有名ですが、なぜそうなったのかや市民には人気があったことはあまり知られていません。この記事では、「ネロ」の生い立ちや人物像、皇帝としての姿や残した名言などについて解説します。
「ネロ」とは?
ネロとは、ローマ帝国の第5代皇帝だった人物で、正式名をネロ・クラディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスと言います。西暦37年12月15日、ティレニア海に面した港町アンツィオで誕生し、68年の6月9日ローマで亡くなりました。
まずは、ネロの生い立ちや皇帝即位の裏側、初期の治世について見ていきましょう。
「ネロ」の生い立ち
ネロの母親であるアグリッピナ(同名の母親がいるため小アグリッピナとも呼ばれる)は、初代ローマ皇帝アウグストゥスのひ孫であり、第3代ローマ皇帝ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(通称カリグラ)の妹です。そのため、ネロはアウグストゥスの玄孫でありカリグラの甥にあたります。実の父親グナエウス・ドミティウス・アエノバルブスは、ネロがまだ3歳だった西暦41年に死去しています。間もなく、精神を侵されたカリグラによって母アグリッピナは追放され父親の遺産はカリグラが没収、ネロは叔母ドミティア・リピダの下で育てられました。母親と共にローマに戻ったのは、カリグラが暗殺され伯父クラウディウスが第4代ローマ皇帝となってからです。
母の策略により第5代ローマ皇帝即位
第4代皇帝クラウディウスによってローマに戻った小アグリッピナは、クラウディウスの4番目の妻となります。当初はクラウディウスの継子だったネロですが、小アグリッピナの説き伏せによりクラウディウスの養子、正式な後継者となるのです。クラウディウスはキノコ中毒により西暦54年に死去していますが、これは小アグリッピナが息子を即位させるために毒殺したとされています。そしてその後、ネロは16歳で皇帝の座に即位しました。
初代皇帝アウグストゥスの血を引くネロの即位は、当時ローマ中の注目の的だったといわれています。
誉れ高かった治世初期
現在では暴君が代名詞のようなネロですが、減税や属州防衛に努め元老院の意見も尊重するなど、治世初期には名君と称えられた時期もありました。しかしそれもネロ一人の功績ではなく、ネロの家庭教師であり後に補佐官となったルキウス・アンナエウス・セネカや、近衛長官のセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐や教え、加えて小アグリッピナの政治手腕によるものでした。
参照:Weblio辞書「ネロ」
皇帝「ネロ」の人物像とは
ネロは政治よりも芸術に高い関心を持ち、特にギリシャ作品に心酔していました。自身でも詩を書き、芝居や踊りのために帝国内各地を巡業しています。
母の策略により即位させられたネロの皇帝としての人物像は、いったいどのようなものだったのでしょうか。暴君と呼ばれるようになった理由には、母親との関係性や身内の殺害、ローマで起きた大火災が関係しています。詳細を解説します。
母親の干渉と政略結婚
母アグリッピナの過剰な期待や干渉は、ネロの人格形成に多大な影響を及ぼしました。先帝クラウディウスの頃から政治や軍事にたびたび口を出しており、それはネロの即位後も変わりませんでした。先帝クラウディウスの娘であるクラウディア・オクタウィアと結婚させたのも、アグリッピナが自身の権力を保持するためだったといわれます。
しかし、あまりに横柄な過干渉はネロとの間に確執を生み、やがてアグリッピナは皇宮から追い出されてしまいます。
ネロの家庭教師セネカ
紀元前1年頃にスペインのコルドバで生まれたセネカは、ネロの補佐としてアグリッピナに呼ばれた頃にはすでに哲学者、著述家、弁論家として名声を博していました。セネカはまず家庭教師となり、アグリッピナと共にネロを即位させた後は補佐官となりました。ネロの治世最初の5年間の立役者であったとされ、ネロが行った先帝クラウディウスに対する追悼演説はセネカが起草しています。
政治の一線から退いた後、ネロを退位させ新たな皇帝を擁立する陰謀計画(ピソ事件)への関与を疑われます。最終的にネロから自殺を命じられ、65年4月に自死しています。
義弟ブリタンニクスの殺害
ブリタンニクス(ティベリウス・クラウディウス・カエサル・ブリタンニクス)は、先帝クラウディウスの息子でネロの義弟であり、最初の妻オクタウィアの弟にあたる人物です。当時13歳だったブリタンニクスは、帝位継承権を行使できるようになる成人の儀式がせまっていました。ところがその前日、晩餐の最中にネロによって毒殺されたと伝わっています。
母アグリッピナの処刑
ネロの後見役として過干渉だった母アグリッピナも、ネロによって命を奪われました。政治に口を出すばかりか、愛人だった女性との再婚にまで難癖をつけはじめたのが理由です。母が乗る船を沈没させ溺死させようとするも、泳ぎが達者だったために失敗。最終的には母に皇帝暗殺の容疑をかけて、近衛兵に殺害させました。
正妻オクタウィアの殺害
12歳でネロと結婚したオクタウィアは貞淑で、夫によく尽くしていたといわれています。しかし、なかなか子供ができない体質でした。そもそもが望まぬ結婚であり、日頃から女奴隷を事実上の側室にしたり友人の妻に心惹かれたりしていたネロは、不妊を理由にオクタウィアと離婚します。のみならず彼女に不倫の濡れ衣を着せ、現在のヴェンテトーネ島に幽閉の後に自殺させました。それは62年6月9日、奇しくも9回目の結婚記念日のことでした。
ローマの大火とキリスト教徒迫害
西暦64年、帝国の首都ローマで大火災が起こりました。滞在していた別荘で報告を受けたネロは、すぐさまローマへ戻り鎮火や被災者救援の陣頭指揮を執ります。しかし、火災の直後からネロが意図的に火を放ったと街で噂が流れました。自身に向けられた疑いを晴らすために、キリスト教徒に罪を着せるという側近の進言を受け入れるのです。歴史上発のキリスト教徒迫害となったこの事件で、何百人もの教徒が虐殺されています。もともと民衆に慕われていたネロもこの大火以降は多くの反感を買うようになり、元老院や軍隊もネロの暴君的な態度に反発を強めていきました。
皇帝としての功績
ローマの大火や身内の殺害などで暴君と呼ばれたネロですが、皇帝として残した功績もあります。特に優れていたとされるローマの再建と、貨幣政策への取り組みについて説明します。
大火後のローマ再建
大火の後、ネロは放火の疑いをかけられながらもローマを火災に強い都市へと変えていきます。具体的には、次のようなことを行いました。
・建物に高さ制限を設け道幅を広げる。
・各戸はそれぞれ壁で囲む。
・集合住宅には中庭を設け、消火用の器具を設置する。
・住居の一定部分を耐火性のある石で造る。
・黄金宮殿ドムス・アウレアの建設
この他、私費を投じて防火用の柱廊を敷設し、水道を整備しています。また、宮殿などの建築物には燃えやすい木材の代わりにローマン・コンクリートを用いるなど、新しい建築様式も取り入れました。区画整理がなされたローマは、街並みが一変したと残されています。
貨幣政策への取り組み
ネロの治世当時、ローマは長引く不況の中にありました。ローマで起こった大火災でダメージの広がりを受けたネロは貨幣政策に積極的に取り組みます。硬貨の供給量を増やし、一方で改鋳を進めました。具体的には銀などの含有量や硬貨の重量を減らし、貨幣としての価値を引き下げたのです。この政策は貨幣供給量を増加させ、その後150年に渡って受け継がれています。
「ネロ」が残した名言
ユリウス・クラウディウス朝からテオドシウス朝まで、ローマ帝国の歴代皇帝たちはさまざまな名言を残しています。もちろん、ネロも例外ではありません。ここでは、ネロが残したとされる名言2つを紹介します。
字など習うのではなかった!
「字など習うのではなかった!」という名言は、17歳の皇帝ネロが死刑執行状への署名を求められた際に発したものです。セネカによればネロに寛容の心があった証であり、即位から1年の初々しさすら感じる名言です。
この世から一人の偉大な芸術家が消え去る
「この世から一人の偉大な芸術家が消え去る」は、ネロが自害する直前に発した最期の言葉としてあまりにも有名です。しかし、真偽のほどは定かではありません。
「ネロ」の最期と死後の神格化
ローマの大火では消火や街の再建に尽力したネロですが、贅を尽くしたドムスアウレアの建設やそのための徴収などもあり、以降は権勢が回復することはありませんでした。各地での反乱や元老院の造反など帝国全土で秩序が急速に乱れていき、ついに元老院により皇帝の地位をはく奪され死刑を宣告されました。逃亡したネロはローマ郊外に隠れますが、刺客が迫るなか喉をついて自害したといわれます。68年6月9日、またもやオクタウィアとの結婚記念日のことでした。
死後は元老院によって記録抹殺刑に処されたものの、墓には市民からの花や供物などが絶えませんでした。また、ネロは神格化され、第11代皇帝への乗り移り説やよみがえり説なども存在しています。
まとめ
ローマ帝国第5代皇帝ネロには、初代皇帝の玄孫でありながら、生い立ちは複雑なものでした。身内の殺害や大火後にキリスト教徒を迫害したことが、暴君と語り継がれる理由になっています。一方で初期には安定した治世を行い、ローマの再建や貨幣政策へ取り組むなど、ネロは皇帝としての確かな功績も残した人物です。