「最澄と空海」とは?二人の宗派の違いや関連スポットも紹介

最澄と空海

平安時代に日本から中国に渡った二人の僧侶がいます。彼らの名前は「最澄」と「空海」。日本の仏教界に多大な影響を与えたといわれる彼らの人物像や、二人の相違点を探ります。また最澄と空海ゆかりのスポットと芸術作品も紹介します。

目次

「最澄」とは?

「最澄」とは?

最澄は平安時代に活躍した僧侶で、そのの名前は現代まで語り継がれています。では最澄はどのようなことを成し遂げたのでしょうか?

遣唐使に選ばれ大陸に渡る

804年最澄は桓武天皇より、唐の国へ行って大陸文化を学ぶ「遣唐使」に任命されます。遣唐使のメンバーには当時のエリートが選ばれ、現在でいうところの公費留学でした。唐へ渡った最澄は大陸の仏教を意欲的に学び吸収しました。

天台仏教を学ぶ

唐へ渡った最澄は、杭州の国清寺で大陸仏教の天台教学を学びました。天台仏教は幅広い教義をもつ総合的な仏教で、最澄はそこから多くのインスピレーションを得たとされています。

天台宗を興した

日本へ帰国した最澄は唐で学んだ天台教学をベースに「天台宗」を興し、天台宗の総本山として比叡山に「延暦寺」を建立しました。天台宗はその後の日本における仏教の基本になったとされ、禅宗や日輪宗、臨済宗などの各派も始祖が天台宗での学んだ後に誕生しています。

「空海」とは?

「空海」とは?

平安時代を生きた僧侶として「空海」の名前も現代まで知れ渡っています。
数々の伝説をもつ空海とはどんなことをした人物なのでしょうか?

遣唐使に志願し大陸に渡る

784年の遣唐使に空海は選ばれませんでしたが、大陸の仏教を学ぶ意欲が強かった空海は、各方面に頼み込んで遣唐使に参加することになりました。しかし、帝によって任命されたのではなく、あくまでも志願のかたちなので渡航費は自費だったといわれています。

真言密教を修行

唐に渡った空海は西安にある「青龍寺」で密教を学びます。その後2年間は大陸で密教の修練を積み、数々の教典や法具を日本に持ち帰ったと伝えられています。

真言宗を興した

日本に帰国した空海は、西安で修行した真言密教をベースに真言宗を興し高野山に「金剛峯寺」を建立します。真言宗と高野山は密教や遍路、山岳信仰の総本山として現在でも多くの人々の信仰を集めています。

「最澄」と「空海」の違い

「最澄」と「空海」の違い

日本仏教の礎を築いた「最澄」と「空海」。この二人の僧侶にはどのような違いがあるのでしょうか?二人の相違点をまとめました。

最澄と空海の生まれ

最澄は767年に近江国(現在の滋賀県)で豪族の家に生まれたと伝えられています。幼名は広野(ひろの)。12歳から仏門で修行をはじめ15歳で得度(出家)し、「最澄」の戒名を授かります。18歳のときには東大寺にて仏教の戒律を授かる「授戒」を成し遂げています。

対する空海は774年讃岐国(現在の香川県)で、当時の地方役人である「郡司」の家に生まれます。幼名は佐伯真魚(さえきまお)といい、神童と呼ばれるほど利発な子供だったと伝えられています。15歳で京に上り、18歳で当時の大学に入学しますが、次第に仏教に傾倒していき、19歳頃から仏門に入り、吉野や四国の野山で修行を積みました。

思想にも違いがある

最澄は大乗仏教や法華経を中心として、仏教の思想を広めることに注力します。最澄の興した天台宗は禅や念仏、密教などの教義を幅広く学べる「仏教の総合大学」的な要素を持ち合わせていました。最澄は仏門に入るための戒律をゆるやかにして、万民に開かれた「大乗戒壇院」の設立を目指しました。

空海は真言密教の神髄を学ぶために唐に渡ります。長安の青龍寺で2年間しっかりと密教を学び、日本に帰国後は真言宗を興し、高野山や教王護国寺(東寺)などの密教道場を建立します。空海はさらに諸国をめぐり、貧民の救済や橋梁、治水事業などを積極的に行い衆生の生活向上のために尽力しました。

最澄と空海の生き方の違い

最澄と空海は同じ時代に生き、仏道を究めるために生涯をかけました。しかし二人の人間性や生き方は大きく違っていたようです。最澄は現代でいえばエリートコースを歩む由緒正しき僧侶でした。対する空海には、在野から身を興し立身していく「叩き上げ」のイメージが強くあります。最澄の誠実・真摯で広い心をもつ人柄と、空海の豪快ででパワフルな性格は、甲乙つけがたい二人の魅力として今日まで語り継がれています。

「最澄 空海」 にゆかりのあるスポット

「最澄 空海」 にゆかりのあるスポット

最澄と空海の足跡は日本のみにとどまらず中国大陸にまでおよびます。最澄と空海の二人にゆかりのあるスポットを紹介します。

最澄が学んだ杭州「国清寺」

現在の中国、浙江省の北にある杭州市に天台山(天梯山とも)があります。天台山は五台山、峨眉山と共に中国仏教における三大霊場の一つです。その山中にある天台山国清寺は、575年に古代中国の高僧、智顗(ちぎ)が天台仏教を興した場所で、天台宗教学の根本道場とされています。最澄はここ国政時において天台教学を学び、日本の天台宗の基礎としました。

空海が学んだ西安「青龍寺」

青龍寺は中国の長安(現在の西安市)にある、582年に建立された寺院です。青龍寺には中国の名僧不空の弟子だった恵果がおり、唐代における密教の中心的な場所でした。804年に唐に渡った空海はここで恵果から密教の法を授かります。その後青龍寺は荒廃しますが、1982年に発掘調査が行われて復興します。現在では日本からの働きかけもあって、恵果と空海を祀る寺院になっています。

最澄と空海が親交を深めた高雄山「神護寺」

京都の高雄山中腹にある真言宗の古刹が「神護寺(じんごじ)」です。かつてこの寺院において最澄と空海が親交を深めたとされています。「神護寺」には国宝で日本三名鐘のひとつの梵鐘をはじめ数多くの寺宝があります。また、境内奥にある地蔵院からの錦雲渓(きんうんけい)の眺望は絶景です。

最澄が興した比叡山「延暦寺」

滋賀県大津市と京都府京都市にまたがる山地が「比叡山」です。この比叡山に「延暦寺」があります。延暦寺は最澄が開いた天台宗の総本山で、1,700ヘクタールの敷地を「東塔」、「西塔」、「横川(よかわ)」の三つのエリアに分け、それぞれに本堂を持ち、堂宇の数は最盛期には3,000を越していたと伝えられています。

延暦寺は、阿弥陀聖の空也、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮、時宗の一遍など、日本仏教の各宗派の開祖となった高僧を輩出しており、日本仏教界の総母山ともいうべき場所です。

空海が興した高野山「金剛峯寺」

金剛峯寺は和歌山県北部に広がる高野山にあります。高野山は「一山境内地」と称され、高野山全域が金剛峯寺の境内として扱われています。総本堂である大伽藍の「金堂」をはじめ、三内に点在する塔頭寺院(子院)は117カ所にもなります。そのうちのいくつかは現在も宿坊として機能しており、参拝者は宿泊もできます。

「最澄 空海」 の関連作品

「最澄 空海」 の関連作品

最澄と空海は数多くの仏像や美術品を残し、現代では彼らをテーマにした文学や映像作品も多くあります。最澄と空海に関連する代表的な作品をピックアップしました。

最澄と空海に関連した美術

最澄と空海にゆかりのある美術品の数々は、平安時代から現在まで大切に保管され続けています。最澄に由来する美術品として名高い延暦寺中堂の本尊である「聖観音立像」は、天台の精神を反映した仏像として現代でも高く評価されています。また、法界寺の「薬師如来立像」や真正極楽寺の「阿弥陀如来立像」なども天台仏教の至宝とされています。仏像以外では「宝相華蒔絵経箱」が貴重な平安時代の工芸品として残されています。

空海にゆかりのある東寺の講堂には21体の仏像が安置されています。これらは大日如来を中心として規則的に配置され、立体的に曼荼羅を表現しているといわれています。また、空海関連の密教法具なども美術的な価値が高く、現在でも真言密教の秘宝とされています。

最澄と空海に関連した文学

書籍や文学作品の中には、最澄と空海の伝記を研究したものが多くあります。宗教学者である立川 武蔵さんの「最澄と空海 日本仏教思想の誕生」は最澄と空海の足跡から、日本における仏教の誕生と広がりを詳しく考察しています。また、小説では梅原 猛さんの著作「空海と最澄」や司馬遼太郎さんの「空海の風景」があります。どちらも綿密な取材と時代考証によって執筆されていますが、作者の解釈によって最澄と空海の描かれ方が違い、読み比べてみると面白い発見があります。

映像作品の最澄と空海

最澄と空海の生き様は、映像作品として見ることもできます。1984年に早坂暁脚本・佐藤純彌監督で制作された映画「空海 Kukai」では、空海の生い立ちから入定までの生涯が描かれています。もちろん最澄も登場し、俳優の加藤剛さんが演じています。主演の空海を演じたのは同じく俳優の北大路欣也さんです。

まとめ

最澄と空海は日本の仏教を語るうえで欠かせない存在です。近年、欧米のビジネスパーソンの中には、仏教に強い関心を持っている人が少なからずいます。最澄と空海のことを知ってビジネスやコミュニケーションにも役立てましょう。

最澄と空海

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